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Hail Bright Purcell

市川 純 20011

 

目次
序論

パーセルの誕生
少年時代
パーセルの作品
パーセルの死
結論
参考文献

 

序論「あまり親しまれていないパーセル」

 イギリスで最も有名な音楽家は誰かと言ったら、それはビートルズだ。だが、クラシック音楽の音楽家に限定するとなれば、それはヘンリー・パーセルHenry Purcell1659-1695)ということになろう。しかし、ビートルズの知名度と比べればパーセルの知名度はかなり低い。ドイツにはバッハJohan Sebastian Bach1685-1750)やベートーベンLudwig van Beethoven1770-1827)、オーストリアにはモーツァルトWolfgang Amadeus Mozart1756-91)、イタリアにはヴィヴァルディAntonio Vivaldi1678-1741)やヴェルディGiuseppe Verdi1813-1901)、ロシアにはチャイコフスキーPeter Ilyich Tchaikovsky1840-93)等、名前も作品も一般的にかなり知られた作曲家がいるのに、イギリスの最も偉大な作曲家がヘンリー・パーセルという、通でなければ知らない人物であるというのはいささか残念なことである。イギリスで活躍した作曲家でヘンデルGeorge Frideric Handel [Georg Friedrich Händel]1685-1759)というバッハと並ぶ大作曲家がいるが、彼はもともとドイツ生まれで20代の時にイギリスに帰化した人物で、生粋のイギリス人ではないため、ここでは省いておく。パーセル以後の作曲家でブリテンBenjamin Britten1913-76)は有名であるが、彼の作品で最も有名なのは「青少年のための管弦楽入門(A Young Person’s Guide to the Orchestra)」であり、これは岩波ジュニア新書のタイトルのようだが、これは曲のタイトルである。この曲は同じメロディーをさまざまな楽器が順番に奏で、楽器の紹介をしながら曲が進行してゆくものである。だが、ここで使われているメロディーはパーセルの組曲「アブデラザール(Abdelazer)」中の「ロンド」を借用したものである。彼はパーセルのご恩をこうむって有名なのである、というのは言い過ぎであろうか。

 パーセルが有名でないのは彼が17世紀の人物であることとも関係があるかもしれない。我々が日本の義務教育の音楽の授業で教わる音楽史の中では古いところでバッハ、あるいはヴィヴァルディであり、彼等の作品は殆ど18世紀に作られたものである。17世紀以前の曲となると大多数の一般人にはそれほどの親しみやすさが感じられないのかもしれない。私はテレビなどでヴィヴァルディ以降の作曲家の曲がBGMとして流れるのを何度も聞いたことがあるが、パーセルの曲が流れたことは一回も無い。日本は音楽教育が盛んで、特に少年少女にピアノを習わせることがとても多いのだが、パーセルの曲を弾いたことがあるどころか、そんな名前は聞いたことが無い子が殆どであろう。日本の出版社でパーセルの楽譜を出版したのはドレミ楽譜出版社の1995年にパーセルの没後300年記念に出版された「パーセル・ピアノ小品集」が最初である。没後300年記念といっても日本ではそんなことを知っているのはごく一部の人だけであり、2000年のバッハ没後250年記念に比べたら全然盛りあがらず、雲泥の差である。

 しかし、私はパーセルの音楽が好きである。繊細、優雅、上品なメロディー、自由な和声。そして時にメランコリックな哀愁を漂よわせる彼の音楽は、実に魅力的であり、私達の耳に優しく語りかけてくる。本論ではパーセルがどのような人物で、どのような音楽を作り、またこの当時の音楽とはどのようなものだったのか、興味深い事項を追求してみたい。

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パーセル誕生

 パーセルの生涯については分からないことが多い。彼に関する直接的な資料が殆ど無いので、二次的な資料を元に推測をするしかないのである。特にその出生、少年時代は分からないことが多い。彼は恐らく1659年に生まれた。何月何日だったのかは分からないが、その年の後半だと推測される。彼の生まれ育った家がどこにあったのかもよく分からず、学者によって様々な説が飛び交うが、ロンドンであることははっきりしていて、そして恐らくはウェストミンスターあたりではなかろうかと思われる[i]。母の名はエリザベスElizabeth、そして同名の父ヘンリーHenryは音楽家で、ウェストミンスター寺院の歌手、聖歌隊長、ヴァイオリン、リュート奏者であった[ii]。また王室礼拝堂(Chapel Royal)の音楽家でもあった。伯父のトマスThomasも王室礼拝堂の音楽家であり、ヘンリーは生まれた時から、いやエリザベスの胎内に宿った頃から音楽的に恵まれた環境で育ったのである。 

 この時期のイギリスはちょうど王政復古の時代である。それ以前、ルネサンス時代から清教徒革命までのイギリス音楽は大陸の音楽にも影響を与えるほどの大きな発展をしていた。特にヴァージナルと呼ばれる小型のチェンバロの音楽や、リュートの伴奏を伴った歌曲「リュート・ソング(Lute song)」、合奏音楽ではヴィオール(英語ではヴァイオル)のための「コンソート(consort)」と呼ばれる音楽がもてはやされた。ヴィオールというのはヨーロッパでヴァイオリンが登場する以前の弦楽器で、元はビザンツ帝国からヨーロッパに流入したものである。形はヴァイオリンと似たところもあるが、弦の数がヴァイオリンの4弦に対して5弦や6弦と多く、弓の持ち方もヴァイオリンは上から持つのに対して、下から持ち、その他形態上の相違点がある。音はヴァイオリンよりも音量が小さくて柔らかく、鼻声がかった音色をもつ。このヴィオールには種種の大きさ、音程の楽器があり、「トレブル・ヴィオール(高音)」、「テノール・ヴィオール(中音)」、「バス・ヴィオール(ヴィオラ・ダ・ガンバ)」(低音)の三つで合奏した。これらの楽器は二つづつ、合計六つを箱に収めることが普通だったため、「チェスト・オブ・ヴァイオルズ」と呼ばれる。宮廷では「マスク」と呼ばれる宮廷仮面劇が上演され、ベン・ジョンソンBen Jonson1572-1637)やジョン・ミルトンJohn Milton1608-74)らが台本作家として活躍し、作曲家はトマス・カンピオンThomas Campion (c. 1567-1620)やヘンリー・ローズHenry Lawes (1595-1662)が有名であった。当時の舞台装置を担当した人物で有名なのは建築家のアイニーゴ・ジョーンズInigo Jones1573-1653)である。彼等のマスクはイギリス・オペラを完成させるための道を敷いたかのように思われたが、1642年からの清教徒革命によってイギリスの音楽は一時停止をするのである。非公式の場ではマスクが上演されていたりもしたが、公式の場では厳格で禁欲的なピューリタンによって音楽が抑圧されることとなった。教会のオルガンの破壊、王室劇場の閉鎖、マスク上演の禁止、礼拝堂合唱団の解散など、これらはイギリスの音楽的発展に致命的な打撃を与えた[iii]。 1660年のチャールズ2世即位による王政復古は再びイギリスの音楽に活気を持たせる音楽復古でもあった。パーセルが生まれたのはまさにそのような時期であった。

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少年時代

 パーセルは6歳の時に父親を亡くしてしまう。当時流行したペストの犠牲者になってしまったのだ[iv]。パーセルはその少年時代に王室礼拝堂の聖歌隊の一人として活動していた。変声期を迎えて聖歌隊として活躍できなくなった後は、彼の音楽的才能が認められ、ジョン・ヒンジェストンJohn Hingeston(王室の楽器を管理していた)の助手となった。彼が1683年になくなるまでの10年間、見習として様々な楽器のメンテナンスや調律を通して楽器の特徴を学び、また作曲家ペラム・ハンフリー(Pelham Humfrey)のもとでは作曲を学んでいた。ハンフリーが1675年に亡くなってからはジョン・ブロウJohn Blow1649-1708)のもとで指導を受けた。また、エリザベス朝の作曲家の楽譜を筆写することによって、それまでの伝統的なイギリス音楽についても学んだのであった[v]1677年に作曲家マシュー・ロックMatthew Locke1630-77)が亡くなると、パーセルは宮廷での作曲家の地位や、劇場での仕事などを継ぐことになった。いよいよ作曲家としての華々しい活躍が始まるのである。

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パーセルの作品

 以前彼は王室礼拝堂の聖歌隊員として活躍していたのだが、今度は自分の作曲したものが王室礼拝堂で歌われることになった。英国国教会で執り行われる宗教音楽で特徴的なのは「アンセム(Anthem)」であるが、彼の作ったアンセムには二つの種類があり、アカペラで歌われる「フル・アンセム(full anthem)」と、独唱と合唱を織り交ぜ、器楽合奏やオルガンの伴奏を伴った劇的な「ヴァース・アンセム(verse anthem)」がある。前者の音楽は伝統的スタイルに拠っていて、それぞれの声部が絡み合い、平行に進行するポリフォニックな音楽であるのに対し、後者はより感情的で劇的な雰囲気を持っている。そのため、保守的な人々はこの手の音楽には反感を抱いたのだが、それでもこのオペラ的なスタイルのアンセムは当時人気を博し、広まったのであった[vi]

 パーセルの作った宗教的な音楽では聖セシリアの祝日ためのオードも有名である。聖セシリアは音楽の守護聖人で、彼女を讃えるオードをパーセルは何曲か作っている。壮大な序曲に始まり、独唱や重唱、合唱を織り交ぜ、典雅な音楽が繰り広げられる素晴らしい音楽である。特にWelcome to all the Plesures (!683)”Hail Bright Cecilia (1692)”は圧巻である。

  1679年からはジョン・ブロウの後任としてウェストミンスター寺院のオルガニストに任命され、オルガンのための「ヴォランタリー(voluntary)」と呼ばれる礼拝用の対位法的な楽曲を残している。なお、当時のイギリスのオルガンについて一言述べておこう。この当時のオルガンは現在の教会に置かれているほど巨大なものではなく、音域も限られ、足で演奏するペダルもついていなかった[vii]。従って、この頃に作られたオルガン音楽にバッハの作品のような壮大な曲は無い。

 さて、ここでパーセルの仕えたイギリスの宮廷について見てみたい。パーセルはその生涯に三代の君主に仕えたが、最初のチャールズ2世(在位1660-1685)は革命中をフランスで過ごし、フランスの優雅で豪華な文化にどっぷり浸りきり、その雰囲気をイギリスに持ち込んだ君主である。カトリックよりの人物でもあるため、議会派とは対立するところのあった人物である。彼はヴェルサイユ宮殿で行われていた音楽をイギリスにも導入しようとし、「二十四のヴァイオリン楽団」を設立した。当時フランス音楽界ではジャン・バティスト・リュリJean Baptist Lully1632-87)が独占的に活躍しており、この「二十四のヴァイオリン楽団」や「小ヴァイオリン楽団」を彼が指導していた。なお、「主馬寮音楽隊」という12本のトランペットと12本のオーボエ、その他横笛などの管楽器と太鼓等を含んだ組織もあり[viii]、華やかな音楽が繰り広げられていた。時の君主ルイ14Louis XIV(在位1643-1715)は音楽とバレーが大好きで、リュリはバレー音楽やバレーを伴なったオペラを数多く作曲した。リュリにはその死に方に面白い逸話がある。当時の指揮棒は杖のように長い棒で、これを床について鳴らすことによって拍子を取っていたのだが、リュリは夢中になって指揮をしているうちに自分の足の指をついてしまい、この傷にばい菌が入ったために死んでしまったのである。

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 イギリスの宮廷音楽として特徴的なのは君主達に捧げられたオード(ode)である。オードという名は前に聖セシリアの祝日のためのオードでも出てきたが、これはもともとは詩の形式を指す名称で、何かしらを讃える内容を持ったものである。ここに音楽が付けられたのがここでいうオードである。王達には何かあるたびにこのオードが演奏された。即位や葬儀の儀ではもちろん、誕生日や、保養地からロンドンに戻ってきた時にもパーセルは作曲している。

 さて、この時期イギリスのオペラはどうなっていたのであろうか。オペラはもともとイタリアに誕生したもので、管弦楽の序曲に始まり、簡単な伴奏を伴ってしゃべるように歌う「レチタティーヴォ(recitativo)」と美しいメロディーを朗々と聞かせる「アリア(aria)」によって物語を進めていく総合的な芸術形式である。フランスではリュリの活躍によってバレーを伴ったフランス独自のオペラを開拓していったが、オペラという形式はイギリスにおいてはあまり発展しなかった。チューダー朝以来のマスクは劇中のセリフの間に歌がはさまれるという形で、レチタティーヴォが無かった。最初のイギリス・オペラ「ロードスの包囲(The Seige of Rodes)」が上演されたのは共和制時代の1656年であった。これはウィリアム・デイヴナントWilliam Davenant1606-67)の台本にヘンリ・クックHenry Cooke1615-72)、ヘンリ・ロウズHenry Lowes1596-1662)、マシュー・ロックMatthew Locke1621-77)、チャールズ・コウルマンCharles Coleman 1664没)、ジョージ・ハドスンGeorge Hudson(生没年不詳)が分担して作曲した[ix]。この曲の楽譜は現在は散逸してしまったが、レチタティーヴォを伴っていたらしい。これを筆頭にイギリスでもオペラに近いものが作られることになった。オペラに近い、と言ったのは厳密にはオペラではないということである。パーセルは劇場のための音楽作りにかなり忙しかったようなのだが、彼の作品で本当のオペラと言えるのは「ダイドーとイーニアス(Dido and Aeneas 1689)」のみである。しかもこの作品が上演されたのは劇場ではなく、チェルシーにある貴族の女子学校である。ここの生徒達がソプラノを歌ったり、ダンスをするなどして上演に加わったらしい。また、この物語の展開はウィリアム3世(在位1689-1702)とメアリ2世(同1689-94)の即位を寓意している節もある[x]。この台本を書いたのは、名誉革命でドライデンJohn Dreyden1631-1700)から剥奪された桂冠詩人の座を継いだネイハム・テイトNahum Tate1652-1715)であった。歌詞だけを読んでもあまり面白くないのだが、それはこの歌詞がそもそも音楽を付けることを前提にして書かれたからである。有名な歌曲の歌詞はあまり有名ではない詩人によって書かれることが多いが、詩を詩そのものとして楽しむために書くのと、音楽を付けるために書くのとでは別の次元である。たとえどんなに素晴らしい詩であろうともジョン・ダンの詩はさぞかし歌にはしにくいであろう。ホルストはテイトの詩について次のように言っている。”If we pour scorn on his lines and describe them as flat-footed or naïve it is because we are not equipped with enough musical imagination to realize their possibilities.[xi]テイトの詩とパーセルの音楽の相乗効果がこのオペラを偉大なる作品たらしめているのである。

 その他のパーセルのオペラ的な作品とはどのようなものなのか。それは「セミ・オペラ(semi-opera)」と呼ばれるものである。イギリスの宮廷では1688年の名誉革命以降、音楽のための予算が減らされ、音楽的な活動は宮廷から劇場や市民のほうへと流れて行った。パーセルもより良い収入と創作のために劇場での活躍が多くなった[xii]。パーセルは五つのセミ・オペラを作っている。1690年には古代ローマを舞台にした「女予言者、またはディオクレジャンの物語(The Prophettes: or, the History of Dioclesian)」、1691年にはドライデンの台本によるイギリスの伝説的英雄の物語「アーサー王(King Arthur)」、1692年には「妖精の女王(The Fairy Queen)」(シェークスピアの「真夏の夜の夢」に基づいて作られたもので、エドマンド・スペンサーの作品ではない)1695年の「インドの女王(The Indian Queen)」、シェイクスピアからの翻案による「嵐(The Tempest)」が作られた。これらのセミ・オペラはDramatic operaとも言われ、マスクの伝統を受け継いだもので、序曲に始まり、劇の台詞の間に、歌や舞曲が挟まれたものである。なお、セミ・オペラでは主な登場人物は台詞を読んでも歌は歌わず、歌は脇役達によって歌われる。「インドの女王」は未完のままパーセルが亡くなってしまったため、弟のダニエル・パーセルDaniel Purcellca. 1663-1717)がマスクを追加幕として付け加えて完成された。

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 こういったオペラやセミ・オペラ、あるいはオード等に使われる序曲は「フランス風序曲」で書かれている。フランス風というのはリュリが始めた序曲の構成法で、最初は付点リズムの重々しい荘重な音楽に始まり、次に対位法的な速い音楽が続く形式である。この形式はパーセルに影響を与えただけでなく、178世紀における序曲の大きな柱である。後のバッハも「管弦楽組曲」の序曲でこの形式を使っている。

 セミ・オペラ以外にもパーセルは劇のための付随音楽をいくつも書いており、例えば1693年にはウィリアム・コングリーヴWilliam Congreve1670-1729)の風習喜劇The Double Dealerに組曲を書き、1694(?)年にはドライデンのAureng-Zebeに音楽を付けている。晩年の41日以前には1676年に初演されたアフラ・ベーンAphra Behn(生没年不詳)の「アブデラザール、あるいはムーア人の反乱(Abdelazer, or the Moor’s Revenge)」の再演のために作曲を依頼される。この上演は失敗に終わったのだが、この音楽の中のロンドは20世紀に至ってブリテンの「青少年のための管弦楽入門」で使用されて有名になった[xiii]

 パーセルの声楽曲でよく指摘されるのが、その旋律と歌詞との精妙な調和である。英語のアクセントに音楽が上手く溶け合っているのである。パーセルの歌を聞いていると、ゆっくりな曲も速い曲も単語の一つ一つの意味に深い味わいが感じられる。

 次にパーセルの器楽曲についてみてみたい。パーセルは前に見たように、オルガンのための小品の他に、アマチュア向けのあまり難しくないヴァージナル音楽を作っている。アマチュア向けと言っても非常に繊細で美しく典雅な曲ばかりである。組曲や自身の声楽曲を編曲したものも多くある。1680年あたりには当時としてはいささか古臭くなっていたヴィオールのための「ファンタジア(fantasia)」を作曲している。ちなみにこの年はパーセルがフランセス・ピーターズFrances Peters1706年没)と結婚した年でもある。この当時のファンタジアは荘重なリズムのポリフォニックな音楽を指し、ロマン派以降の幻想的な曲趣のいわゆる「幻想曲」と翻訳されているものとは違う。

 1683年には「三声のソナタ集(Sonatas of Three Parts)」が出版される。この作品は二つのヴァイオリンと通奏低音のために書かれたもので、基本的に緩―急―緩―急の四楽章形式を取り、実質イタリアの「トリオ・ソナタ」の形式で書かれている。トリオ・ソナタはバロック音楽の典型的な室内楽の形式で、イタリアで生まれたものであり、アルカンジェロ・コレッリArcangelo Corelli 1653-1713)によって大成される。ゆっくりな曲と速い曲を交互に織り交ぜた4楽章形式は「教会ソナタ(ソナタ・ダ・キエザ)」とよばれる。パーセルの音楽にはフランスの影響が見られると先に述べたが、それ以上にイタリアの影響も認められ、このことはジェイムズ2世(在位1685-88)の妻メアリ(Queen Mary of Modena)がその名の通り、イタリア出身で、即位後もイタリアの音楽家を招いていたこととも多いに関係がある。「通奏低音」について説明しておくと、これもバロック音楽の典型的な書法であり、低音パートはたいていはチェロ、あるいはヴィオラ・ダ・ガンバと、チェンバロあるいはオルガンが担当し、チェロ(ヴィオラ・ダ・ガンバ)の低音パートをチェンバロ(オルガン)奏者は左手で演奏し、右手はそれに即興的に和音をつけていくものである。つまり実際トリオ・ソナタは3人ではなく4人の奏者を必要とするのである。なお、パーセルの死後出版された「4声のソナタ集(Sonatas of Four Parts)」も題名は違うが「3声のソナタ集」と同じ形式で書かれている。

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パーセルの死

 最後にパーセルの死について述べてみたい。パーセルの死について詳しいことは分かってはいない。パーセルが外で酒を飲んでちっとも家に帰ってこないので、奥さんが怒って家に入れないようにしたため、外で夜を明かしたパーセルは風邪をひいてこじらせ死んでしまったという説もあるが、パーセルは死の直前の病状が急に悪化した時に、急いで走り書きした遺書で自分の全財産を愛する妻に捧げると書いており、風邪をひいたと思われるその日のロンドンの天気も穏やかだったという記録があるので、風邪をひくことはなという反論もあり、本当のところが分からない[xiv]。だが、死の数ヶ月前から病気になっており、16951121日に亡くなったことは分かっている。埋葬は26日にウェストミンスター寺院でパーセル自身が作曲した教会音楽が歌われる中で執り行われ、費用は寺院が負担してくれた[xv]

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結論

 私はパーセルがもう230年長生きして18世紀にまたがって活躍していたら、さらに多くの傑作を残し、もっとメジャーな作曲家になったかもしれないと思うのだが、不条理にも彼は36歳という若さで亡くなってしまった。これが本当に奥さんに閉め出された結果だとしたら、面白いような面白くないような皮肉な運命である。私はもっとパーセルの音楽が日本でも盛んに演奏されてほしい。特にヴァージナル音楽はわりと演奏容易なうえに非常に美しいのであるから、少年少女のピアノ教育でも積極的に取り上げてほしいと思う。また、声楽曲も英語で書かれたものが多いので、イタリア・オペラよりも分かりやすく、親しみやすい部分があると思う。さらに驚くべきことに、1917年(大正6年)にパーセルの作品を多く含む貴重な楽譜の写本が日本の徳川侯爵に売却され、 文庫に収められたという歴史的事実がある[xvi]。ならば、パーセルの音楽はもっと楽譜が出版され、広められて当然ではないだろうか。パーセルの音楽がもっと多くの人々に親しまれることを願いつつ、今日も私はピアノに向かおう。譜面台にパーセルの楽譜を開いて。

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[i] Zimmerman, Franklin B. Henry Purcell, 1659-1695 His Life and Times 2nd ed. Philadelphia: University of Pennsylvania Press. 1983. p.2

[ii] ibid. pp.6,7.

[iii] idid. p.p164,165.

[iv] Zimmerman, Franklin B. p.17.

[v] ibid. p.40.

[vi] ibid. p.57.

[vii] Downes, Ralph. An Organist’s View of the Organ Works. from Holst, Imogen ed. Henry Purcell, 1659-1695 Essays on his Music. London: Oxford University Press. 1959. p.68.

[viii] ジャン・フランソワ・パイヤール「フランス古典音楽」渡辺和夫訳.文庫クセジュ303.東京:白水社.p.124.   

[ix] 戸口幸策「オペラの誕生」東京:東京書籍株式会社.1995p.247.

[x]Zimmerman, Franklin B. p.173.

[xi] Holst, Imogen ed. Henry Purcell, 1659-1695 Essays on his Music. p.37.

[xii] Zimmerman, Franklin B. p.179.

[xiii] ibid. p.246.

[xiv] ibid. p.255.

[xv] ibid. p.258-253.

[xvi] Henry Purcell, 1659-1695 Essays on his Music. Holst, Imogen ed. p.127.

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参考文献

 

Holst, Imogen ed. Henry Purcell, 1659-1695 Essays on his Music. London: Oxford University Press. 1959.

Zimmerman, Franklin B. Henry Purcell, 1659-1695 His Life and Times 2nd ed. Philadelphia: University of Pennsylvania Press. 1983.

ジャン・フランソワ・パイヤール「フランス古典音楽」渡辺和夫訳.文庫クセジュ303.東京:白水社.

戸口幸策「オペラの誕生」東京:東京書籍株式会社.1995

中村孝義「室内楽の歴史」東京:東京書籍株式会社.1994

皆川達夫「バロック音楽」講談社現代新書291.東京:講談社.1972

無量塔六「ヴァイオリン」岩波新書(青版)921.東京:岩波書店.1975

ドレミ・クラヴィア・アルバム「パーセル・ピアノ小品集」木村雅信校訂.東京:ドレミ楽譜出版社.1995

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